迷信について

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迷信について考える


世の中には様々な迷信があります。頭ではそれは迷信であると分かっていても、何か不安で、そうした方に越したことはない、と思われている人は多いのでしょう。物事の本質は何か、真実の教えとは。そういう重たいものを真剣に問いつめていけば、迷信とかにとらわれている自分が見えてくると思うのですが……

これは浄土真宗の教えとは違うとか、こういうことはしてはいけない、というだけではなく、物事の起こりと思想背景をとらえることができれば、迷信にとらわれない私を実践できるのではないかと思い、次のような話を提起しました。

ありがたいことに何通かメールをいただき、これはいろいろと議論するとおもしろ いぞ、という雰囲気になりましたので、迷信のコーナーを開設します。 

四十九が三に月


月忌参りではないのですが、初七日にお参りしたとき、「昨日お寺さんに電話しといたんじゃけど、四十九日は×月×日にお願いしますけぇ。ちぃと早いんじゃが、三月にまたがるといけんいうでしょ」、といわれました。ああまたかと思い、「それはね、始終苦が身に付く、いう語呂合わせからきたものじゃけぇ気にせんでもええですよ」というと、「はあ、ほうですか。じゃぁどうしょうかね」と集まったみなさんで日程を改めて協議されました。

結構四十九日は三月にまたがっちゃぁいけんと思っておられる方は多いです。上の方のように、ちゃんと納得される方は少なく、「お寺さんはそういうてじゃが、親戚のもんに絶対しちゃぁいけん昔からそういわれとるんじゃけぇいうものがおって、それを無視してまでゆうとええ気がせんけぇ」といって三十五日あたりにされる方が多いのが現状です。

いったいこういう迷信などはいつ頃から広まったのでしょう?春秋会の未来開発部会でもいろいろと話し合ったのですが、結構こういった迷信は多いようです。また、そういうことを声を大にしていう人は、声が大きく、皆から一目置かれる人(やねこい人?)な ので、なかなか改まらないようです。私が小学生の頃、フォークでライスを食べるときは、フォークの背にのせるんじゃ、という作法がまかり通っていましたが、今じゃぁそんなことをいう人はいません。やはり根拠のないものだったからです。

洋食のライスのように、根拠のない迷信を捨象していくことはできないものでしょうか。そういったものに縛られる方が、ある一定の規則があって楽なのかもしれませんが……

どなたかこういった迷信とかに詳しい方、また文献をご存じの方はいらっしゃいませんか。迷信の起こりと伝搬状況など、いろいろな背景がつかめてくるとおもしろいのですが。

アメリカ在住の中川様より

始終苦が身につく(四十九が三に月)の語源の依ってきたるところについて、私がかつて広寂寺の前住の達道師から聞いた話をShareいたします。達道師曰く、”身内に不幸のあった時、嘆き悲しんで、めそめそ、くよくよするのはしよう のないことだけれども、門徒たる者、そういった期間が長くても満中陰までとしなければならないし、出来るだけ満中陰の法事の時には、もう本来の地に足をつけた日常に立ち 戻っていなければならない。

この事は古くから安芸門徒の間ではあたりまえのこととされていた。そこで門徒の間では、めそめそ、くよくよの期間は、御法義に遇うている者なら短いにこしたことはないとの風潮が生まれ、めそめそ、くよくよといった期間は二か月が限度!といった了解事項があった。

始終苦が身につく云々、とは、正確には、’御法義がはらに入っていないと、始中苦(四 十九)が身につく(三に月く)ようになるぞ’と、つまらんダジャレを言う説教師が言い始めた ことのよし。

金沢の藤井様より

七七日が三ヶ月になると「始終苦(四十九)が身に付く(三月)」といい忌み嫌うのは  全国的に広がっている迷信の代表例でしょう。  石川県特に金沢市では斎場(火葬場)が二ヶ所ですが、市営でありながら友引の日  はどちらか一方しか営業しないということをしています。  東西本願寺で改善を要望しておりますが、なかなか難しいものがあります。  良時吉日を選ばないというの現状においてなかなか難しいですね。  このような問題を広く考えていくことは大変いいことだと思います。がんばってください。

広島の高蔵様より

アメリカの中川さんからのメッセージを読みました。  中川さんのご意見は正しいのかもしれませんが, 我々僧侶が問題にしなければならないのは,  その謂れ(いわれ)の根拠ではなく、 「四九日の三月越しはいけない。」と言わせる心情ではな いでしょうか。

「三月越しはいけない。」とおっしゃる方々は、 ご法義がある方々よりも, 「何もわかりません から、色々教えて下さい。」とおっしゃる方々のほうが 断然多いと思います。 その根拠を知らず、 「親戚の者が言いますから。」という場合が多いのです。 おそらく、ご法義の観点からではなく、  何かを恐れている場合が多いのではないかと考えます。

その何かとは---  「親戚の者と争いたくはない。」というような単純な言い分もあるでしょう が, その奥底には 亡くなった方が,我々遺族に,何か災いをもたらすのではないかというよう な、 不安があるのではないかと思います。 これは日本の古来からある,「死」を忌み嫌う文化。

たとえば、「喪中」という言葉で象徴されるような、「ご冥福をお祈りいたします。」や 「天 国で安らかにお眠り下さい。」や 生前使っていた茶碗を割るとか、 棺をぐるぐる回すとか、 清 め塩を巻くとか, のように、 「死」をタブーにしている文化に影響を強く受けているように 考えま す。

我々僧侶が問題にしなくてはならないのは、このような文化的・宗教的 な背景ではないでしょうか。亡くなったことを決して忌み嫌うのではなく、わたしの寿命に限りがあること。いつ死んでもおかしくない「いのち」を生きていることを、亡くなった方が命がけで教えて下さると、人として命をいただいたことの尊さ、親子として出会ったこと、あるいは、夫婦として、兄弟として、先輩として、後輩として、友人として、出遭ったことの尊さを教えて下さると、決して「無」になる人生 ではなく、まして、「ゴミ」になる人生ではなく、お浄土で「ほとけさま」にならせていただく人生を阿弥陀様に恵まれて、今、尊い人生を歩ませていただいていることを 伝えなくてはならないのではないかと思います。

僧侶のみなさんはどう思いますか。ご意見を「春秋会ホームページ」に----。